@imaharu が小学生の思い出を振り返っていてよかったので、後に続く(半年の時を経て)。思い立ったが吉日よ。
元の記事はこちら。
imaharu-blog.hatenadiary.jp
全てを思い出そうとして振り返ったら、結構なボリュームになった。
しかし、こういうのは全部書いておくと後々何かしらのフックになるので、あまりまとめようとせずに書いてみた。
前提
昭和末期生まれの男性
兵庫県の播磨エリア出身
二人兄妹の長男
父は会社員、母は近所でパート
実家は戸建て
公立の小学校。1クラス35人くらいが2クラスで、1学年70人くらい
通学路
小学校までは、小学生の足で徒歩20分くらいだった。
登校は同じ地区の小学生で集団登校。下校はたまに集団下校もあったが、基本は各自で帰っていた。
集団登校には、1年生から6年生までが集まる。そこで上級生が、雑談がてら下級生に自作のテーブルトークRPGをプレイさせるのが流行っていた。
「目の前に洞窟が現れた。どうしますか?」「洞窟に入る」「スライムが現れた。どうしますか?」「戦う」みたいなやりとりである。
語り手によっては難易度が変わり、理不尽なゲームマスターの場合はマジで理不尽なゲームとなっていた記憶がある。
このセルフTRPGは代々、上の学年から下の学年へ伝わっていき、下級生が上級生になると、また次の世代へ伝わっていった。今思うと立派な文化継承だった。
授業と休み時間
授業中の思い出は、あまりない。
覚えているのは、小学4年から黒板が見えづらくなって、メガネをかけ始めたことだ。一番後ろの席だと特にきつかった。
原因は多分ゲームボーイ だ。モノクロの画面を、寝る前に暗い部屋でよくプレイしていた。まあ低学年からずっとあの画面を凝視していたら、目は悪くなるわな。
当時は小学4年でメガネの子はほとんどいなかった気がする。現代はそうではないのだろうけど。
休み時間は、朝の会までの時間と2時間目後の20分休みが外遊びだった。1年はドッジボール、2〜3年はキックベース。1学年2クラスだったので、クラス別の対戦が多かった。
あの頃は登校したらとりあえず運動場に出てボール遊びをしていた。元気だったな。
3年の休み時間は、もっぱらドラクエバトルえんぴつ だった。
特別ルールは、HP200で、モンスターのえんぴつに装備キャップを2つつけて戦うというもの。机を2つくっつけて最大4人で対戦していた。
4年の休み時間は、あまり覚えていない。机の上でコマ回しの対戦をしていた記憶はあるので、コマ関係のイベントが小学校であったかもしれない。
高学年の休み時間に至っては、ほとんど記憶がない。覚えているのは、一時期クラスメイトが紙で紙幣を作って造幣局をやり、クラスの中で""経済""をやっていたことくらいだ。
給食
給食といえば黄金パンだ。皆好きだったと思う。
黄金パンは、兵庫県加古川市や高砂市など東播磨地域で親しまれている、きなこをまぶした「きなこ揚げパン」の呼称らしい。
献立は曜日で決まっていて、月・水・金が洋食、火・木が和食だった。
ただ、僕は全体的に野菜が嫌いだったので、嫌いなものが多かった。特に和食の火・木は嫌いな献立が多く、洋食の月・水・金はまあ普通。
牛乳は嫌いではなかった。
小学生にありがちかもしれないが、低学年の頃は給食の早食いをしていた。
きっかけは、クラスに陸上をやっていて、食べるのもいつもめちゃくちゃ早い女子がいたことだ。その子に密かに、いや密かではなかったかもしれないが、対抗心があったのである。
しかし、ある日突然「冷静に考えるとご飯は普通に食べた方がいいな」と悟りを開いて、普通に食べるようになった。
行事
遠足や社会見学は、どこかしら色々行った記憶はあるものの、もう何も覚えていない。小学4年の林間学校は、飯盒炊爨のカレーと、夜に皆でやったドラクエのバトルえんぴつくらい。小学6年の修学旅行は広島に行った気がするが、体調を崩して部屋で寝ていた気もする。
林間学校の時、僕はクラスの委員長で、クラスを取りまとめたりしていた。
運動会では地区対抗リレーなどの代表によく出ていて、マラソン大会も上位ではあった気がする。運動神経はあまり良くなかったけど。
小学生男児は、えてして足が速いと序列が高い。後述する入院までは、クラス内のカーストも割と高かった気がする。
行事系で特に記憶に残っているのは、音楽系の2つの出来事だ。
小学2年の時に、高学年クラスが音楽会で演奏していた曲がずっと気になっていた。曲名が分からなくて、記憶だけを頼りに調べていた。ドリカムの「晴れたらいいね」にたどり着いたのは高校生になってからだ。
VIDEO www.youtube.com
もう1つは、卒業式の入場BGMだ。毎回の練習で聞いてからずっと格好いいなと思っていたけど、こちらも何の曲か分からず、ずっとタイタニックか何かのテーマだと思っていた。判明したのは大学生になってから。まさかApollo 13のEnd Titlesだったとは。
VIDEO www.youtube.com
勉強
勉強は普通だった。落ちこぼれてはいなかったが、特に頭が良いキャラでもなかった。通知表は大体が3だった。
塾には行かなかった。親から「塾に行くか?」と確認されることも催促されることもなかったし、そもそも勉強は好きではなかったからだ。これは中学以降も続き、結局人生で塾や予備校に行くことはなかった。
高校は、偏差値51の公立高校に進学している。
後から振り返ると、勉強への特性が普通で、親も教育熱心ではなく塾にも行かせないと、マジで平均のど真ん中になるんだな、という納得感がある。
そう考えると、首都圏の親が子供に中学受験をさせたがるのも分かる気がする。
大学受験だけは、なぜかやる気があって頑張ったけど、それはまた後日の別の話だ。
ゲーム
小学生時代は、ずっとゲームをしていた。ザ・ゲーム少年である。
ゲームボーイは小学1年、プレイステーションは小学3年、ニンテンドー64は小学4年で買ってもらった。
スーパーファミコン(SFC)は持っていなかった。というか、買ってもらえなかった。
低学年の頃は据え置きのテレビゲーム機を買ってもらえなかったので、代わりにゲームボーイを買ってもらって、ずっとプレイしていた。
そのぶん、SFCを持っている友達の家によく遊びに行って、プレイするのを見たり、スト2やがんばれゴエモンをやらせてもらったりしていた。
SFCを持っていないのに、実質週5くらいでプレイしていたかもしれない。
中学年に入った段階で、なぜかテレビゲームを買ってもらえるようになった。なぜかというか、僕がずっとめちゃくちゃ欲しがっていたからかもしれない。
祖父母にも、たまにゲームを買ってもらっていた。お年玉、クリスマス、誕生日、あとなぜか子供の日にもプレゼントがあって、それでやりくりしていた。
各行事のプレゼントは、99%ゲームだった。ゲームハードは高かったので、何個かのプレゼントを合算して1台買ってもらった。まあこれもゲームか。
ダイエーの試遊台
近所のダイエーのおもちゃコーナーには、ゲームの試遊台があって、自由にプレイできた。
親の買い物についていっては、ずっと試遊台でゲームをしていた。ゲームのプレイ時間を最大化するのはゲーム少年の定めだ。
スターフォックス、マリオペイント、超魔界村、そしてセガサターンのバーチャファイターはプレイした記憶がある。あとはマリオ64もかな。バーチャルボーイ も記憶にあるな。あれ、バーチャルボーイって小学生の頃だったっけな。
他の子供もいるので、交代でプレイすることが多かった。親の買い物が終わるまで、ずっとそこにいた。
買い物のルーティンは決まっていた。
まずスーパーのお菓子コーナーに行って、毎回100円くらいのお菓子を選ぶ
次に母親を見つけて、選んだお菓子を買い物カートに入れる
そのあとゲームの試遊台コーナーに行き、プレイしながら母親の買い物が終わるのを待つ
親の買い物への同行は、僕にとってお菓子とゲームプレイ機会の両方を獲得できる大幅アドイベントだったのである。
ポケモン
ポケモン赤緑は、さすがに小学校のクラスで流行った。
発売日の近くに、赤を買ってもらった。実家から徒歩30秒くらいの所に住んでいる同級生の友人が緑を買うというので、自分は赤にした記憶がある。御三家はもちろんヒトカゲで、ジムリーダー戦の最初の方は苦労した。
後にコロコロコミックの誌上通販で青も手に入れた。
通信ケーブルを繋いでの友達との対戦は、LV100の6匹バトルが定番だった。バグ技でミュウツーを量産して、ミュウツー6匹同士で対戦するのだ。大体はふぶきとれいとうビームで、先に凍らせるかを競う運ゲーだった。種族値努力値の概念はもちろん知らなくて各能力値が低く、じこさいせいでの回復が間に合って倒しきれないからだ。
通信交換で進化するポケモン(カイリキー、ゲンガー、ゴローニャ、フーディン)の進化方法は、当初は分からなかった。当時はネットにアクセスできなかったし、攻略本もほとんどなかった。この4匹は、長いこと図鑑が埋まらなかったのである。
攻略本は、「ポケットモンスターを遊びつくす本」しか発売されていなかった気がする。
note.com
ただ、たまたま友人とポケモン(確かゴーリキーだった気がする)を交換したら進化して、「通信交換で進化するポケモンがいること」を自分たちで""発見した""。
もしかして図鑑が埋まっていない残りの4匹も、通信進化か?!と気づいた時は熱かった。そしてこの発見は、クラスに広まっていったのである。
友達の家のマリオ64
N64を買ってもらう前、先に友達の一人がN64とマリオ64を買ってもらっていて、よく遊びに行ってプレイしていた。
その友人は中学受験をする教育熱心な家庭で、よくそのお母さんに怒られていた。怒られていたのは僕たちだ。
親としては、息子に勉強させたいのに、僕たちがよく遊びに来るので勉強できない。あまりよく思っていなかった、というのはありそうだ。後から振り返ると、たぶんそうだったんだろうなという感じである。
当時の僕は、中学受験という概念を全く知らなかった。地方だしね。「なんで普通にしていたら地元の公立中に進むはずなのに、別のところを受験するんだろう?」と素朴に思っていた。
その友人は結局私立中学に進学してそのタイミングで交流が途絶えた。当時は連絡を取る手段もなかったのでやむなしだった。
後日談だが、高校3年の時に外部の模試を受けに行ったら、その友人にバッタリ再会した。人生にはこういう再会イベントもあるんだなと思った。
スマブラ
ポケモン以外で思い出深いタイトルは、ニンテンドー64版のスマブラだ。
来る日も来る日も、自宅で友達とスマブラで対戦していた。4人以下ならずっとプレイして、5人以上なら4位抜け交代でずっとプレイしていた。あの頃は一生スマブラしてた。
自宅にニンテンドー64とスマブラがあったので、友達の溜まり場になっていたのである。ありがとう64、ありがとうスマブラ。
僕はずっとピカチュウを使っていた。
僕に限らず周りもスマブラというものをよく分かっておらず、コンボという概念も知らなかった。なので基本的に投げ主体で戦っていたし、スマブラとはそういうものだと思っていた。
後日談として、中学に進級してから他の小学校出身の同級生と対戦したら、コンボを鮮やかに決められてダメージを稼がれた。そういうのもあるのかと感心した。文化の伝搬ってこんな感じなんだろうなと思った。
小学6年の時には、この小学校で誰が一番スマブラが強いかを決めようぜと思い立って、自分の家で総当たりの最強決定戦を開いた。
10名以上が家に来た。あの日が自宅に呼んだ友達の数が一番多い日だったはずだ。
ちなみに、自分は1位じゃなかった。2位か3位だった気がする。1位は後に警察官になるフォックス使いの子だった気がする。
64のスマブラは最高のゲームだったな。
ゲーム雑誌のライターになりたかった
小学生の頃は電撃PlayStation と電撃NINTENDO64 を愛読していて、それぞれのライターの影響を受けていた。特に電撃PlayStationの読者投稿コーナーのコラム(ライターが書いていたやつ)がとても面白いと思って読んでいた。
そして、ゲーム雑誌のライターになりたかった。小学校を卒業する時点でなりたかった職業がこれで、卒業文集の将来なりたい職業にもそう書いた気がする。
ゲームを作る側ではなく、プレイする側がいいなと思っていた。そこには、ゲーム少年として当然の帰結があった。
放課後の遊び
遊びに行く時には、いつも偶然性があった。放課後の話だ。
連絡手段がなく、家電もあまり使わなかった。なので、アポなしで友達の家に行きピンポンを鳴らして、在宅していたら一緒に遊ぶ。
その友達がいなかったら、どこに行ったかを聞いて自分もそっちに合流するか、別の友達の家に行く。あまりに偶発性が高くて良すぎる。
逆に、自分の家で友達と遊んでいる時にピンポンが鳴って、別の友達が合流するパターンもあった。
校区外へ皆で自転車で出かけたりもした。今思うと、小学生時代が人生で一番リア充だった。
そういえば小学3年の時、外で遊んでいて蜂に刺されたことがあった。当時はそのまま普通に放置してその後も特に何ともなかった。ただ、もしかして今また蜂に刺されたら、アナフィラキシーショックで死ぬ可能性はあるのか?
コロコロ世代
小学校低学年の頃からコロコロコミックを愛読していて、高学年まで、ピュアなコロコロキッズとして忠実に生きていた。
コロコロは親に買ってもらっていて、確か15日だったと思うが毎月の発売日が待ち遠しかった。他には同じ小学館の学年ごとの「小学◯年生」の雑誌も買ってもらっていた。
当時のコロコロでブームだったものは、一通り体験していた気がする。
小学2年くらいまでは、自由帳に1ページ9コマ固定で漫画を描いていた。マリオやカービィの漫画で、これはコロコロの影響だろう。ボンボンもたまに読んでいたが、基本はコロコロ派だった。
マリオワールドのような横スクロールのゲームのステージも自由帳に描いて、クラスメイトに消しゴムなどで動かしてプレイしてもらう遊びも、クラスで流行っていた。
小学2〜3年は、ミニ四駆にハマっていた。ちょうど爆走兄弟レッツ&ゴー!! の連載がコロコロで始まって、ミニ四駆がブームになっていたのである。まあコロコロキッズなら当然ミニ四駆もかっ飛ばす。
校区内の模型店がミニ四駆を取り扱っていて(というか当時はブームだったので、ミニ四駆がメインだった)、放課後や土日はこの模型店に通うことが多かった。
屋外のスペースにはミニ四駆のコースが常設されていて、そこで走らせることができた。店内には、休憩スペースというかミニ四駆をいじるスペースもあった。行くと、大体同じ小学校の子供がいた。
小学3年の時にそこでミニ四駆の大会が開催されたので、参加した。そしたらたまたまだけど、優勝できて金メダルをもらった。人生で唯一の金メダル獲得経験だ。マシンはブラックセイバー だった。
後日談として、その模型店はいつの間にか美容室になっていた。時の流れよ〜。
ちなみに、思い出のゲームショップが美容院になっていた話は、これ以上好きなキャラはもう現れないかもしれない にも書いていた。
shifumin.hatenadiary.com
ポケモンも当然ここに入るが、ゲームの話でもう書いたので省略する。
ハイパーヨーヨーが流行っていたのは、小学校高学年の時かな。ステルスブレイン、ファイヤーボールあたりを持っていた気がする。
学校では流石に禁止されていたような気がして、持っていかなかった。友達と遊ぶ時にやっていた。技は、ロングスリーパー、ループザループ、スプリットジアトムくらいしかもう覚えていないな。
画像を見ると懐かしい気持ちになる。
ja.wikipedia.org
テレビ
アニメは、飛べ!イサミ 、ドラゴンボールGT 、はれぶた あたりが記憶に残っている。ポケモンショック も経験した。
www2.nhk.or.jp
映画は、高学年くらいから洋画がかなり好きになって、木曜から日曜の洋画劇場や金曜ロードショーは、ほとんど全て欠かさず見ていた。割と中学生の頃とかぶる気はするけど。
テレビで放送していた映画で記憶に残っているのは、もののけ姫、カリオストロの城、ラピュタかなあ。なんか今でも金曜ロードショーでやっている内容だな。洋画だとプレデターか。てか、単純に放送回数が多いから記憶に残っているだけの気がする。
今も残っているのは金曜ロードショーくらいで、洋画劇場はもうないもんな。
映画館へは、ほとんど行かなかった。主に金銭的な理由な気もするけど。低学年か中学年の頃、友達の誰かの親の引率でゴジラを観に行ったくらいしか記憶がない。
バラエティは、マジカル頭脳パワー!!、ぐるナイのゴチになります!、めちゃイケ、バリキン7 賢者の戦略、ウッチャンナンチャンの炎のチャレンジャー これができたら100万円!!、平成教育委員会、TVチャンピオンあたりが記憶にある。
マジカル頭脳パワー!!は好きすぎて、小学校低学年の誕生日にボードゲームを買ってもらった。
w.atwiki.jp
ドラマは、ほぼ見ていなかった。例外は『ぼくらの勇気 未満都市』くらいで、これは全部見ていた。KinKi Kidsの「愛されるより 愛したい」の8cmCDを買ったくらいにはハマっていた。『銀狼怪奇ファイル』も見ていたか。
8cmCDって時代だよな。
読書
漫画の単行本は買ってもらえなかったが、小説なら親が買ってくれた。
低学年の頃は、童話の『天才えりちゃん 金魚を食べた』 が好きだった。著者は竹下龍之介 で、6歳が同年代向けの童話を書いて福島正実記念SF童話賞を受賞しているのは、冷静に考えるとすごい。
その後は推理小説で、内田康夫の浅見光彦シリーズを何冊か読んだ。赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズも、よく買ってもらって読んでいた。
文庫を読み終えると、新しい文庫を買ってもらえる運用になっていた。
お菓子と駄菓子屋
お小遣いは定額ではなく、必要に応じてもらっていた。
その分、お菓子はダイエーでの親の買い物のたびに買ってもらえた。
当時からきのこの山派。今もだが。
ミルキーウェイもよく買ってもらっていた。あれはマジで美味しかった。当時は70円くらいだった気がする。
駄菓子屋は、家の近くにも小学校の近くにも、結構な数があった。10円から買えて、小学生にはいい時代だったな。伸びるグミみたいなのを、よく買っていた気がする。
ドラゴンボールのシールかカードがついてくるお菓子もよく食べていたのだが、検索しても見つからない。
そんな思い出深い駄菓子屋は、今はほぼ全ての店舗が別の何かに変わっている。これも時代よ〜。
家族と祖父母の家
妹は4歳年下だが、仲は良かった。
家や車の中で、よく兄妹でじゃれあっていた。親は「こいつら本当に仲がいいな…」と思っていたはずだ(推測)。
母方の祖父母は隣の市に住んでいて、土日によく泊まりに行っていた。月1くらい。土曜に親に送ってもらって泊まって、日曜に親が迎えに来るスケジュールだった。
従姉妹たちもタイミングを合わせて泊まりに来ることが多かった。5歳下と7歳下で、妹を入れても僕が一番年上だった。
後日談として、従姉妹たちが高校生の頃は僕が家庭教師として勉強を教えていて、二人とも無事に志望校の大学に受かった。めでたいですねo(^-^)o
祖父母と一緒に買い物に行ったり、近くの公園で遊んだりした。N64が来る前(小学1〜3年)は、基本的に公園で遊んでいたかもしれない。
N64が来てからは、家から持っていって、従姉妹と一緒にスマブラなどをプレイしていた。
土曜の夜は、夕食を食べながら『幽☆遊☆白書』と『セーラームーン』を見て、その後に確か『平成教育委員会』を見ていた。今思い返すと、最高にいい時間だった。よくすき焼きの鍋を作ってくれて、皆で箸をつついていた。
父方の祖父母は、実家の近所に住んでいて、歩いて行ける距離だった。買い物についていっては、ゲームや本も買ってもらっていた。
双方の親戚が近所にあったので、帰省イベントは特になかった。
家族ではオリックスの観戦にも行っていた。当時はオリックスブルーウェーブで、グリーンスタジアム神戸(神戸総合運動公園)に応援に行っていた。よくオリックスの選手の下敷きを買ってもらって小学校で使っていた。野田、長谷川、平井など投手ばっかりだった。
ちなみにオリックスはイチローが台頭する前は弱くて、イチローが出てきて戦力がそろった95年・96年にリーグ連覇、96年には日本一を果たした。この時代にオリックスを応援できたことは良かったな。
夏休み
夏休みは、朝6時か7時くらいに、近くの公民館に地区の小学生皆で集まってラジオ体操をしていた。音楽は、ラジオで流していた気がする。保護者が持ち回りの当番で見守ってくれていたんだっけな。
宿題は、休み中に終わらせることができない小学生だった。毎回、新学期が始まって数日経ってからなんとか全てを終わらせていた気がする。
ありがちだけど、読書感想文やポスターは最後まで残しがちだった。もちろん先生には毎回怒られるのだが、反省はしない小学生だったのである。
ポジティブに考えると、終わらせてはいたのでやり切る力はあるか(?)。
水泳
生涯で唯一の習い事が水泳だ。幼稚園の年長から始めて、小学4年まで続けた。
水泳教室は、クロール、背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライで25mを泳げるようになり、そのあとはターンありの50mの級に進むというコースだった。
僕は、50mの級に進んだあたりでやめた。バタフライまでやったしもういいかな、と親に相談した記憶がある。一応4泳法の級は合格していたので、すんなりOKだった。
今思うと、水泳を習っていたのは、とても良かった気がする。体力がつくし、風邪も引きにくくなるし、いいことしかない。水泳は親が勧めてくれた気がするので、親に感謝である。
ただ、この身体面のメリットを考えると、水泳の習い事はやめなかった方がよかったかもしれない。いつまで続けるんだという話はあるが。
水泳をやめた後に、次に書く入院があったので、つい結びつけて考えてしまう。
入院
水泳をやめたのと同じ小学4年で、1年ほど入院した。
確か10月で、林間学校のすぐ後のことだった。
きっかけは、確か運動会の練習中に、いきなり意識を失って倒れたことだった。その時は一過性のものとしてそのまま放置していたが、しばらくして微熱が引かない状態が2週間くらい続いた。
地元の病院で診てもらったら、即日のいきなり入院となった。そして、その日のうちに別の病院へ搬送されて、人生で初めて救急車に乗った。
入院中は親が毎日見舞いに来てくれた。実家は播磨で、入院していたのは阪神地域の大学病院なので、結構距離がある。今思うと、親の愛情をかなり感じる出来事であった。
骨髄移植
なんやかんやがあり、骨髄移植をすることとなった。まずはドナー探しからだ。
これは本当にたまたまで、確率的には奇跡的らしいが、妹の骨髄と僕の骨髄の相性が良かった。また、遺伝的に近い方が、移植後に拒絶反応が出づらいという。よし、それじゃあ、妹の骨髄で。妹に感謝案件だ。
僕は生まれはO型だが、骨髄移植したことで血液型はB型になった。
移植の前後は、いわゆるクリーンルームという無菌状態の部屋に隔離されてしばらく過ごした。その期間は絶食で、点滴で栄養を受けて、ただ抗生物質系の薬だけを飲む。薬があまりにまずくて小学生には本当に地獄の期間だった。
院内学級
結構大きな病院だったので、院内学級があった。
入院中の小学生が集まって勉強する仕組みで、先生が1人いて時間割は普通の小学校と同じ、朝から夕方まで勉強をする。もちろん体育などはなくて、国語と算数しかやっていなかった気もする。
制度上は、病院の近くにある小学校に転校した扱いで、そこの児童ということになっていた気がする。
全員で6人くらいで、同級生は自分を含めて3人だった。
そのうちの1人は、偶然にも自分の中学校と同じ学区の小学校の子だった。小学校は別々でも、中学校では同級生になっているはずだった。
けれども退院後、中学校で再会することはなかった。もう名前も苗字も覚えていない。
頑張れば見つけられたはずだが、中学校は8クラスあって、3年間同じクラスにならなかった。たぶんいたんだろうけども、結局再会できずという感じだ。
病棟のゲーム
小児科病棟に入院していたわけだが、ゲーム少年だったため、病棟でもずっとゲームをしていた。病棟なので、遊ぶのはテレビゲームではなく基本的にゲームボーイだ。消灯が21時で、大体24時くらいに寝るので、その3時間ぐらいの暇な時間もゲームに充てていた。
小児科の男子の大部屋は8人部屋で、全ベッドが埋まっていた。その中で年が近かった、当時中学1年の子と、同い年の小学4年の子と仲良くなった。
3人でずっと、『キング・オブ・ファイターズ'95』で格ゲーをしたり、ポケモンでLV100のミュウツー6匹バトルをしたりしていた。
対戦以外では、一人でゲームボーイの『風来のシレンGB 月影村の怪物』をやっていた。いわゆる「もっと不思議のダンジョン」の「月影村出口」をずっとチャレンジしていたが、結局クリアできずに終わってしまった。
病棟が消灯するまでは、皆でトランプやUNO、人生ゲームみたいなボードゲームでよく遊んでいた。大部屋は男子と女子で分かれていたが、この時は男女混ざって仲良くやっていた。トランプはずっと大富豪だったかな。
退院後
そんなこんながあり無事に退院できたわけだが、元の小学校に戻った時は体力の低下がすごかった。
体が思ったように動かない。入院前の感覚で体を動かす(足を蹴るとか手を動かすとか)と、頭の中のイメージに体が実際についていかない。1テンポ遅れている感じだった。
徒歩20分の通学路も、最初の数ヶ月は親に車で送り迎えしてもらっていた。
移植後は食物アレルギーがひどくて、給食が食べられなかった。一人だけ、親が作ってくれたアレルギー食材を一切含まない弁当を持参して食べていた。
移植直後は、食べられないものがあまりにも多すぎた。生もの系は全部ダメで、刺身はもちろんダメ。卵は生に限らず、卵自体がダメだった。給食の所で牛乳は嫌いではなかったと書いたが、その牛乳も含めて乳製品は全部ダメで、チーズやヨーグルトも食べられなかった。あとは蕎麦もNG。
なので外食もできず、親がこの辺りを考えて作ってくれた料理を食べる日々だった。弁当も含めて、ここも親に感謝案件です。
退院後もしばらくは外来に通院していた。小学5・6年の時は週1回、月曜日に親に送ってもらって通院し、採血で異常がないかを確認していた。中学1年の頃は、月1くらいだったかな。
普段は採血で調べるのだが、2ヶ月に1回くらいは骨髄を採って、問題がないかを検査していた。
この骨髄を採る検査はマルク(骨髄穿刺)と呼ばれていて、これがあまりにも痛い。麻酔は使うのだが、麻酔をしても痛い。マジで小学生なら全員泣くレベルで、僕も普通に泣いていた。
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体力を元に戻すのには、だいぶ苦労した。これも中学校の話なので後日談になるが、中学1年まではとにかく体力も筋力もなく、体育の成績は10段階で2とか、そのレベルだった。いや、もともと体育は得意ではなかったが。
転機は、中学で入ったソフトテニス部だ。顧問が結構厳しい人で、基礎練やランニングでかなり鍛えられたので、結果的に中学2〜3年くらいで体力と筋力が戻ってよかった。
入院前までは、結構陽キャ的なポジションだった気がする(自称)。それが入院を経て陰キャになった。まあ、長期入院なんてしたら性格も落ち込むわな。クラス内のカーストも、入院前よりは下がった気がする。
ただ、たらればの話にはなるが、入院していなかったらオタクになっていなかった気もする。もっと言うと、コンピュータやインターネットに興味を持たず、大学で情報工学を専攻していなかったかもしれない。いやー、これはたられば。
まあ、今の自分が今の自分だと思うので、何とも言えないけど。
退院後の生活も含めて、全般的に大変でしたねという感じだ。僕も大変だったけど、親の方がもっと大変だったと思う。これは親に感謝案件、それも一番大きな感謝案件だ。
恋
心が動いた出来事は、不思議と今でも結構覚えている。
小学2年の頃に、隣の席の女の子が夢に出てきて、結構ドキドキした。
翌日、普通に話してみようと思って、本人に夢に出てきたことを話した。話す時もドキドキだったが、返ってきたのは「へー」みたいな普通の反応だった。まあ、そんなもんかと思った記憶がある。
同じ小学2年の頃、宿題の本読みはしてきたのに、本読みカードに親のサインをもらうのを忘れて、朝の時間に「どうしよう……」となっていたことがある。
すると、給食の早食いでライバルだったあの女子が、字が上手くて親のサインを偽装してくれた。それをやってくれたことに、ドキッとした。
……と、どちらもドキッとはしたけど、低学年ってまだ恋心は芽生えていない気もする。たぶん、ただ単にドキッとしただけだ。
また、小学3年の時に靴箱にラブレターが入っていたこともある。入院まではリア充寄りだったのだ。
そのラブレターには、「どこそこに来てください」みたいなことが書いてあった。ただ、指定された日時が、当時習っていた水泳と被っていた。なので、普通に「水泳の習い事が被っているから行けないな」と思ってスルーして終わった。
その後は特に追加のイベントも発生しなかったので、誰が書いたのかも不明なまま現在に至る。
そして、ガチの恋は入院中にやってきた。2歳年下の元気っ娘を、よく分からないけどとても好きになった。今思ってもマジで恋だったと思うし、当時も小学生ながら「これは恋だな」と自覚していた。
しかし、特に告白もしなかった。院内学級でも一緒だったけど、普通に仲良く遊んだだけで、何もアクションを起こさないまま終わった。そういうこともあるよな。いや、そういうことしかないか(?)
小学5年で元の小学校に戻ってからは、同級生のメガネの子を好きになった。穏やかな性格と、その雰囲気が好きだった。入院前から好きだった気もするけど。もちろん、この子にも特にアクションは起こしていない。
しかも、本当に偶然だろうけど、入院中に好きだった子とこの子は同じ苗字だった。不思議な縁を感じた。
元気っ娘とメガネ。おそらくこの2人が、僕が好きな二次元キャラの属性に、結構影響を与えている気がする。2人が好みを作ったのか?それとも、元々の好みがあったから2人を好きになったのか?卵が先か鶏が先か、それは今も分からない(?)
縁は大事にしよう
そういえばこんな感じだったなあと、小学生の頃を深く思い出しながらこの記事を書いた。
しかし、書いていて気づいたのだが、なんと2026年現在、小学校の同級生で連絡を取っている人が1人もいない!!!
1学年70人もいたのに、である。
まあ当時はスマホどころかガラケーも持っていなかったし、SNSもなかったしで、やむなしか?悲しいですね。
今日の学び: 縁は大事にしよう!
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