しふみんの日記

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自分の発言を論理的に補強したいという欲

先日友人と会話した際に「説明的な余計な一言が多い」と言われた。しかし、そこが僕らしさだとも言われた。照れる。

件の発言が出た経緯は、あるマスコットキャラを褒める際に「確かに可愛い。ポケモンにいたら可愛さランキング上位に入ると思う」と発言したことだ。発言の後半が余計な一言だと言われた。確かに。
もちろんこの発言にポケモンを下げる意図はないが、余計な一言だと言われたらそれはそうという気がする。
あと、発言がビジネス洋書っぽいとも言われた。ビジネス洋書でよくあるような具体例を交えて説明することが多いかららしい。
発言が洋書っぽいかどうかはおいておくとしても、確かにビジネス洋書で謎に多用される具体エピソードが大好きなのは間違いない。具体例がなくなるとページ数が1/3になりそう本ばかりを読んでいる。

僕は観測できるものだけで評価すべき一派に属している。言い換えると、観測できないものを評価材料にすべきではないと思っている。ここでいう「評価」は広義で「判断」みたいなものを含んでいる。
人は他人の頭の中は覗けないので推し量ることしかできない。推し量るということはそれが実際にそうかもしれないしそうじゃないかもしれないということだ。だからこそ、振る舞いや言動でしか評価できないし評価すべきではない。皆そう考えている気がしないでもないけど、恐らく僕は人よりもこれをstrictに遵守すべきだと考えが強い。
人は嘘をつくことができることからわかるように、頭の中の考えと振る舞いや言動は一致していないことがある。何ならそのケースが多いまである。人は皆働きたいと思って働いているのだろうか。
したがって、極論ではあるとは思うものの、僕は頭の中ではどんなに悪いことを考えていても振る舞いや言動が良ければその人はその評価においては良いと判断すべきと考えている。第三者視点ではデスノート夜神月はいい人という評価が妥当だというのが僕の考えだ。

観測できるものだけで評価すべき一派に属しており、頭の中で考えていることと振る舞いが必ずしも一致していないことを考えると、どうしても「自分の発言は真」というシグナルを発したくなる。
自分の発言を論理的に補強したいという欲。この発言は本当にそう思っていると主張したい。この発言は真だと証明したい。そういう欲だ。この「自分の発言を論理的に補強したいという欲」が最初に書いた発言を引き起こした。そして、今回の発言だけでなく多発している自覚がある。
人狼で自分視点を発言して材料として落としていくムーブに似ているかもしれない。人狼だと「自分は村人です」と発言しても情報量は0なので、論理的に自分が村人だと(自分視点を落としたり特定の誰かの怪しさを発言するなどして)説明しないといけない。
俺はこの世界に情報を落としていきたい。このブログもそのための道具だ。

とはいえ、今回の件でもう少し会話をインタラクティブにやってもいいかもしれないとは思った。
今回の例で行くと、補強なしの「(このキャラは)可愛い」で一点突破もいいのではいう気持ちが芽生えた。雑談においては情報を落とす必要がないケースがあるので(むしろ多い)、ただの感想はただの感想としてアウトプットしてもいいのではないかと。我思う故に我思うの精神で行く(?)

説明的な発言をしてしまいがちなのは仕事の影響もあると思うんだよな。
リモートワークのおけるテキストの非同期コミュニケーションが主体だと、要点からのWhyやHowも組み込んで説明的なコミュニケーションをした方がお互いの認識のずれも防ぐことができて変なことが起きないんだよな。だから、仕事ではこういうコミュニケーションをすべきだと思う。
しかし、もちろんプライペートは仕事ではないのでそういうコミュニケーションモードのスイッチを切るべきなのだろう。WhyやHowは先行入力して組み込んでおきたい欲を断ち切る。発言や主張の味付けは最初から行わず後から流れでやっていく。いやー難しそう。

しかし、この記事自体がタイトルを回収しているというメタ記事になっている構造な。いや、このブログの全ての記事がそれなのだが。

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