最近、友人から「(僕は)イライラすることがあまりなさそう」と言われた。確かにそのように見えるだろうなとは思うが、意識的にそう見せようとしているわけではない。自分の信念に沿って振る舞った結果、周囲からはそのように見えているというのが正しそうだ。
イライラする閾値は他人と大きく異なるとは思わない、いや少しは高いかもしれないが、そうではなくて次の3点によって、僕は周囲からはイライラしていることが少ないように見えている気がする。
- イライラに近づかない
- 人のミスに寛容でいる
- 人に対する愚痴を言わない
イライラに近づかない
これは初歩的なことであるが、イライラには極力近づかないようにしている。イライラに限らずだが、””危険察知センサー(ハザードデテクションセンサー)””の感度を高くして、危険には極力近づかないように努めている。
例えば、Xで流れてくるイライラしそうなポストやそのリンク先があったとして、それを見てイライラしていては詮無い。イライラするものを見るとイライラする、それはそうだろう。
イライラは未然にブロックする。これが一番大事だ。対症療法ではなくワクチンを接種していけ。
最近よく思うのは、イライラのようにプリミティブに感情をネガティブに作用させるものは幸福度を非常に下げるということだ。
いい例えば思い浮かばなかったが、1000円札がどこかに消えてしまったとかそういうイベントの発生よりも幸福度が確実に下がると思う。言うなれば、自分の魂にダイレクトアタックを喰らっているようなものだから。
そのため、イライラに限らずそういったネガティブには出来るだけ近づかないのが人生の幸福への近道だと思う。
人のミスに寛容でいる
そもそも、人は誰しもがミスする生き物だ。
初見のミスは人ならば誰でも犯す。なぜなら、それが初見だからだ。
重要なのは同じミスを繰り返さないようにすることで、同じミスの発生を仕組みや環境によって防げればそれでOKだと考えている。初見のミスは仕方ない。
誰だってミスをしようとしてミスしていない。人は皆合理的に行動している。
他人のミスに寛容でいるのは「ミスを許すから僕のミスも許されてくれ〜」の精神もある。皆許してね。
人に対する愚痴を言わない
人に対する愚痴を言わないようにしている。
愚痴を言うことのメリットとデメリットを天秤にかけた場合、そのデメリットの方がはるかに重いと考える。「アウラ、お前の前にいるのは、千年以上生きた魔法使いだ」
以前愚痴に対する姿勢をブログに書いた。
これはインターネットにPublicに愚痴を書かないという話だけど、Privateな居酒屋談義的な場でもほとんど言わないようにしている。
人に対することを愚痴らないようにしているのは、まあ自分なりの処世術だ。
僕は完全に忘れていたのだけれど、以前に元同僚から「別チームのメンバーを強い言葉で非難する愚痴をこぼした時に、いきなりマジトーンで『そういう振る舞いは止めた方がいい』と言われて、普段はそういう雰囲気じゃないからびっくりした。が、感謝している」的なことを言われて、そういえばそういうこともあったなと思った。
昔からこういう姿勢だったような気がする。そういえば、親が他人の愚痴を言っているのをほとんど聞いたことがない気がするな。
それはそれとして、Xで半実名の人が職場の人や愚痴を書いているのを稀によく見ることがあって、周囲の雰囲気はどんな感じなのかは個人的に気になるところではありますね。
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上で書いた3つの姿勢を取っている結果として、外からみると僕はイライラすることが少ないように見えるのだろう。イライラすることももちろんあるが、極力それを表に出さないようにしているとも言える。
要は、「罪を憎んで人を憎まず」の精神でやっていっているんですよ。