しふみんの日記

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部屋が汚くても他人の衛生観念をエミュレートできればOK

いずれ価値観のすり合わせの記事を書きたくて、共同生活で衝突しがちな「衛生観念の価値観」について考えていた。僕は何かを考える際、単純化のためモデル化して考えるのが好きだ。というわけで、この記事では僕が考える衛生観念の価値観のモデル化について書く。
衛生観念の価値観は他の価値観と異なる。他の価値観というのは何かというと、独立した肢から選択する「食べ物の好み」や閾値が1つの「許容できる最寄り駅までの距離(徒歩時間)」などだ。衛生観念の価値観は、そういった他の類の価値観と違って登場人物が多少増えて少しだけ特殊性がある。そのゆえ面白く感じる。
まあ、衛生観念の価値観の違いは共同生活で衝突しがちで話題によく上がるので、実際は面白いというよりは難しい問題なのだろうけど。

前提として、衛生観念の価値観の人間間(にんげんかん)のすり合わせは複雑なため、この記事ではある個人の衛生観念に対するモデル化のみを取り扱う。
また、分かりやすさのため衛生の対象は部屋の綺麗さとする。

衛生観念の価値観は他の価値観と異なり少しだけ特別な性質がある。

  • 対象の衛生状態は時間経過により変化する
  • 複数の変数が登場する
  • 衛生観念の許容範囲は固定値ではなく下限と上限というレンジである
    • 後述するがこの許容範囲には上限もあると考える

僕が考える衛生観念のモデルは以下の通りだ。

  • 登場人物は次のものがある
    • 部屋の現在の状態
    • 人の許容範囲
    • 行動原理
  • 部屋の綺麗さを一次元として考える。100が一番綺麗で0が一番汚い状態だとする
    • 100が無菌室で、0がSEKAI NO OWARI
    • 部屋は時間経過とともに汚くなっていく。つまりこの数値はどんどん下がっていく
      • 完全な余談だが、僕は小学生の時何かのすごい病気で兵庫医科大学の附属病院に入院して無菌室にしばらく入っていたことがある。俺は無菌室に詳しいんだ
  • 登場人物
    • 部屋の現在の綺麗さの状態
      • 例: 50
    • 人の価値観
      • 許容範囲
        • 例: 30以上90以下
          • 綺麗さが30以上なら許容できる
          • 簡単化のため絶対的に許せるラインを下限の閾値としているが、実際は許容度はグラデーションしているはず。部屋の綺麗さ40は許容度50(まあ許せる)、部屋の綺麗さ30は許容度10(かなり厳しい)みたいに
        • 上で書いたが、許容範囲の閾値には上限も存在する
      • 行動原理
        • 衛生状態の回復(=掃除)をいつやるかなど
        • 定期型
          • 例: 毎週末に70に回復するまで掃除する
        • トリガー型
          • 例: 30を下回ったタイミングで70に回復するまで掃除する

このモデルには2つポイントがあると僕は考える。
1つは、衛生観念の許容範囲の閾値は下限だけではなく、上限もあること。そしてもう1つは、人が行う衛生状態の回復(=掃除)は必ずしも許容範囲の上限に回復するまでは行わないこと

衛生観念の許容範囲の閾値は下限ではなく、上限もある。
もちろん誰だって原則は部屋は綺麗な方がいいだろう。僕だって部屋は綺麗な方がいい。しかし、それには条件がある。それは掃除のコストを考えない場合だ。
掃除にはコストが必ず発生する。ある程度まで綺麗にすることは必要だが、その高頻度の掃除は、その綺麗さの底上げのための掃除は本当にコストに見合うものだろうか?部屋の汚さを野放しにするのは絶対に良くないが、掃除のために支払うコストの増大は野放しでいいのか?そんなことはないはずだ。そしてもちろんそのコストは誰かが支払う必要がある。部屋は綺麗な方がいいがそのコストは誰が支払うんだ?他人がコストを負担してくれるなら話は別かもしれないが(またはロボット掃除機などを利用する場合はコストが減りそうではある)

僕は値を変動できる時は極端なケースをまず考えるのが好きだ。
例えば、1年に1回の掃除と1時間に1回掃除。絶対的にどちらがいいということはない。じゃあ1ヶ月に1回ならいいのか。1週間に1回ならいいのか。ここに絶対的な正解はないはずだ。
結局はこれはトレードオフで、要はバランスおじさん。1人なら好きに選べばいいし、2人なら擦り合わせろ。正解があるんじゃなくて、正解を決めるんだよ
かくして、衛生観念の許容範囲については「そいつはやりすぎだ」という上限の閾値が存在するのである。

掃除をした際に許容範囲の上限に回復するまでは行わない。
関連するが、人は掃除をした際に許容範囲の上限に回復するまでは行わないことが多いと考える。というか、そもそもできない。人それぞれの理想はあるものの、例えば埃が1つも落ちていない状態まで一体誰が掃除できるというのだろうか?理想的な衛生状態、ここでは許容できる衛生状態の上限に相当する、は現実にはコストが重すぎるのである。現実的には衛生状態の回復はどこかで妥協する必要が必ずある。
したがって、衛生観念の許容範囲の閾値に上限は存在するものの、上限に達するまで掃除を行うということはほぼあり得ない。

僕が考える人の衛生観念のモデルの話はここまでだ。
話は少し変わるが、僕は部屋が汚い人が絶対的に悪いとは思わない。
部屋の掃除にはコストはかかる。上でも書いたが結局はトレードオフ。人生全体では部屋を掃除しない分の浮いたコストを何か別のことに利用しているだけで、それはただその人の優先度がそうなっているというだけだ。

僕の考えはこうだ。部屋が汚くても極論は問題はなく、他人の衛生観念を推測できればOK。
例えば、今の部屋がかなり汚く自分はそれを許容しているという状態で、他人と共同生活を送れるか心配があるとする。この場合も、他人にこの話をしたら引かれるという判断をしたことがあった場合は希望はあると考える。
「他人にこの話をしたら引かれるかも」という考えることは、他人の価値観の許容範囲を意識しているということにままならない。それはつまり、他人の許容範囲はこれぐらいだろうと予想しているということ。
他人は自分とは別の許容範囲があるということを理解しているのであれば、あとはすり合わせの問題となる。

部屋が汚くてもいい。
価値観なんか変えなくてもいい。
他人の衛生観念をエミュレートできればOKだ。
他人の衛生観念をエミュレートし、その通りにやればいい
ただ、やるんだよ

(この後、家中にクイックルをかける音が流れる)(予定)


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