しふみんの日記

しふみんの日記です。

2月28日

今日は3月7日なので日記のビハインドは7日分。3月中に現実時間に追いつきたいが果たして。

この2年で周りの人間たちが転職したり関西に戻ったり結婚したり子供ができたりして社会編セカンドシーズンに突入しているように感じる。何となくだけど、今後は、昔からのリアル由来の人間関係でもTwitter(あるいは次世代のSNS)で繋がっていない関係は油断していると消滅してしまいそうな予感があるので、今一度それぞれの関係を繋ぎ止めておく布石を打っておきたいなと思った。

 

 

まだ、ここにない、出会い

僕は映画をよく観る方だと思うんだけど、好きなのは映画というよりはアクション要素のある何かなので洋画ばかりを観ている。観た洋画が面白かったので洋画を好きになり、次に見る作品も洋画の中から選ぶというループの中にいる気がしていて、実際に時間があるので何か良さそうな映画が配信されていないかと思ってAmazonビデオ検索する時も無意識の内に洋画の中から見つけようとしてしまっている。

で、この前、彼女が「絶対に面白いから」×10と言うので、そこまで言うならと思って「帝一の國」という邦画を一緒に観た。邦画を観たのは本当に数年ぶりというレベルで久しぶりだったけど、確かに面白かった。内容については別途感想を書くかもしれないし書かないかもしれないけど、とても楽しく観賞できた。

思えば、人に何かを勧める時は普通はその人の嗜好を考慮した上でそれを勧めることが多いはずで、自分のことをよく知っている人から勧められたものは自分にとっての外れが有意に少ないのかもしれない。

食わず嫌いはよくないとは思うけど、その食わず嫌いを打開する良いシステムを構築できていないから現状食わず嫌いしているわけで、そういう意味で、周りのその筋で信頼できるかつ自分のことをよく知っている人にその食わず嫌いしている周辺のものを推薦してもらうのは食わず嫌いの良い打開策になるのかもしれないなと思った。

 

関西弁の薄れ

東京に来てから早いもので2年半くらい経った。何があるかわからないので(?)普段はもちろん標準語で話しているけど、少し前までは帰省した時、通話で地元の人間たちと話す時、あるいは関東にいる同郷の人間と話す時などは意識せずともオートで話し言葉が関西弁に切り替わっていた。しかし、この前地元の人間たちと久しぶりにSkypeで通話した時に、関西弁を話すの自体が久しぶりだったためというのもあるんだろうけど、あまりにぎこちない関西弁(と標準語の混ざった何か)を話してしまったために「言葉遣いがバグってるぞ」と言われてしまった。使う機会が激減しているというのはあるけど、もしかしたら、このままのスピードで世界がまわったらあと数年くらいで関西弁を話せなくなるようになるかもしれないなと思った。代わりに、ようやく英語を習得する土壌が整ってきたな(?)

他人に任せる力

一般的にオタクはファッションセンスがなく服装が壊滅的になりがち(要出典)だと思うが、僕もそうなので、下はユニクロの同じチノパンを色違いで3本買い(紺、緑、茶)、上はユニクロの同じフリースモックTを色違いで3着買って(黒、青、赤)、下は数日間ごとに、上は1日ごとに変えて9通りのバリエーション(?)を生み出して冬をやり過ごしていた。

配られたカードで戦うしかないというのはよく聞く話だけど服の場合はそのカードを自分で仕入れることができるじゃんと思って、同じようなセンスのオタクにどうやって服を選んでいるのかを聞いたところ、「俺もファッションセンスがないので服に関して完全に彼女に任せて言われたのを買っている。俺らみたいなオタクはこれが正解に近いと思う」という回答が来て、この場は「なるほど~」と思って終わったんだけど、続きがあって、後日話の流れで「モンハンワールドの最初のキャラメイクも彼女に全部任せた。なぜなら造形のセンスもないから」ようなことを聞き、これが人に任せる力かもしれないなと思った。本人があらゆることに対して丸投げ体質でなくて自分が締めるところは締めるということを知っているので、自分が苦手なことは適材適所、適切な他人に上手く任せているんだなと。こういうタイプの人間はプレイヤーではなくてマネージャーみたいな立場が向いているのかもなと思った。

イメージするものは常に最強の自分だ

成功体質の作り方についての考えを書いておきたい。ここで言う成功とは何も大それたことではなくて、例えば「早寝早起きをしようとして、それが成功する」ような些細な成功も含まれていて、成功体質とは超抽象的だけど「何かに取り組んだ時にそれが成功しやすい性格」のことを指す。

ここ数年周りを見ていると何かの挑戦に成功しがちな人は自信がある(自信が強い)人であることが多いことに気づいた。当たり前なんだけど、自信がある人が成功しているんだな、と。自信がある人が成功し、その結果でさらに自信を得て次の成功へ繋がっている。これじゃあ、「成功する人が成功する」になって結局トートロジーじゃん!ってなるけど、それはそうだ。 幼少期だと特に何もしなくても親が無償の愛を注いでくれて、それが万能感というか自信に繋がっていると思うんだけど、ある程度歳をとるとそれは期待できない(期待できる環境だとそれはそれで怖い)。期待できないので、自分で自信を得る自己完結する方法を考えてみたけど、結局それは何かを成功させて自信をつける以外にないと思う。ただ、その成功はきっと些細なことでもいいんだ。例えば、日曜日の朝だけはちゃんと早起き(9時台までに起きる)(?)してコメダのモーニングを食べに行く。友人が受験するので流れで申し込んだ宅建に合格すること、など。そんな小さな成功が先のもう少し大きい成功を呼ぶはずだ。振り返ってみると、低空飛行な人生ながら要所要所は締めてきたいう事実が確かに自分の自信に繋がっている気がする。今までの人生何とかなってきたから今回もなんとかなるでしょという風に。

まとめると、未来の何かを成功させるためには今取り組んでいるものを成功させるしかない。そしてそのためには結局は地道にやっていくしかないということになる。そういうわけで毎日このブログを更新しているわけです。友人に伝える用にどうすれば成功するのかについての僕の考えを書いてみた。

コスパについて考える3 まとめて掃除をすると得だと思ってしまう問題

他人との共同生活ならいざしれず、一人暮らしだと自分が許容できる部屋の綺麗さ(あるいは汚さ)の範囲内で部屋の掃除を先延ばしにし続けることができる。また、一人暮らしで住むような部屋の大きさだと一度の掃除で全ての箇所を掃除を終えられないということは発生しないはずで、一度の掃除のコスト(作業時間等)は極端な汚れがない場合はその頻度によらずほぼ一定のはずである。これらのことを合わせるとコスパ厨は、「掃除のコストがほぼ一定であるならば、パフォーマンス(取り除ける汚れの量等)を最大化するためには掃除をできるだけ先延ばしにして汚れを溜めた方がいい(?)」と考えてしまうのである(???)。しかし、本来コスパ最適化を目指す対象は掃除単独の作業コスパではなく生活のコスパのはずで、生活まで視野を広げた場合のパフォーマンスとは即ち「(掃除をしたことによって)きれいな部屋で生活をすることで得る利得(気持ちよさ、健康等)」となる。前者の掃除単独の作業コスパを追求するなら限りなく掃除を先延ばしにするのが解になるが、そうではなくて後者の生活のコスパを追求するなら、掃除を行う頻度はある一定の解に定まるはずだ。コスパ厨として、いまだ求められていないこの解である掃除の頻度を考えていかないとなと思いながら、明日の来客に備えて僕は久しぶりの部屋の掃除を行った次第であります。

恋人と共通のフォロワーがいるメリット

Twitterの話です。恋人と共通のフォロワー(ここではフォローしている人を指す)がいるとメリットがあって、

 

彼女「あー、またえっちなイラストツイートをいいねしてる!」

僕「いや、このイラストは○○さんがいいねしてTLに流れてきたイラストだから、いいねしてもいい(?)イラストだよ」

※ ○○さんについてはプライバシー保護のため伏せさせていただきます。

 

上記のような言い訳をすることができる。この言い訳は○○さんの徳が高ければ高いほど効果があり、僕はこの前の週末にこの言い訳を使って普通に怒られが発生した(○○さんの徳は高かったが効果はなかった)